桃源郷

境界性パーソナリティ障害 愛着障害 うつ病 精神疾患と向き合うブログです。

過去を巡る 〜大学時代①〜

大学に入学した頃、将来はユネスコという国連の機関で働きたいと考えていて、大学では人類学系を専門に勉強しました。


と言っても正直ユネスコの具体的な仕事内容は知りません。想像するに現有の世界遺産保全活動や管理、新規で登録する遺産の審査や評価をしているのだろう、人類の英知や大自然の神秘に触れることのできる魅力的な仕事なのだろう、と思ってました。

 

基本的にユネスコは文化多様性を受容し、あらゆる文化を保護していこうという考え方をとっています。
言語、民族、風俗、習慣、歴史、宗教、価値観など各地域でバラバラでも、みんな違ってみんないいよね、画一的なものにしないようにそれぞれの文化を大切にして守っていこうね、というニュアンスだと解釈しています。

(ディズニーランドのイッツアスモールワールドはきっとそんなテーマで作られていると思っていて、とても好きなアトラクションです)

 

この考え方には賛成なのですが、残念ながら自分の中に矛盾を抱えていました。

 

自分には大学に入る前から付き合っていた彼女がいたのですが、彼女はある宗教を信仰していてそのせいで自分も色々と面倒に巻き込まれていました。


例えば初詣には行くことができないとか、メリークリスマスと言ってはいけないとか、鳥居をくぐってはいけないとか、神様はいないと主張したりだとか…。
通常であればスルッと流れる何気ない会話であっても、彼女と話している時には触れてはならない地雷を踏んでしまい、会話が中断してしまうことが幾度もあったわけです。

 

「えっ?そんなところが引っかかるの?」と思う場面が多々ありました。

 

最初は許容できていても付き合いが長くなるにつれだんだんとうんざりしてきて「そんな宗教やめてしまえばいいのに」と考えるようになりました。

 

つまり文化多様性を推進していきたいと思う反面、自分の身に降りかかる面倒な宗教事情には巻き込まれたくないという思いを同時に抱えていたわけです。その矛盾にとても苦しみました。

 

友達にこの悩みを相談しても「考えすぎだ」と言われただけで解決になりませんでした。
考えすぎという言葉の真相は何でしょうか。
あまり考えなくていいということ?じゃあ感覚に従えということ?


この悩みは文化多様性の真理に迫る大事な問題で、逆にもっと深く考えて議論すべき良い題材じゃないかなと思います。もしこの件について考えるのをやめてしまうようであればユネスコ職員には相応しくないのでは、とまで思っています。


大学1〜2年の頃に散々悩み続けましたが、結局ユネスコへの道を諦めることにしました。
自分の中に矛盾を抱えたまま就職の面接に臨むなんてできませんでしたから。


前回の記事でも書きましたが、やはり自分は何者にもなれなかった。そう思います。

 

皆さんは自分の信じるものはありますか?

どんな逆境が訪れようとも決してブレない自分の軸をお持ちでしょうか?

 

自分は信じるものや軸がないまま30半ばまで生きてきました。おかげで少し風が吹いただけでフラフラしてしまいます。
自分の軸は一体どこにあるのでしょうか。
どうやったら見つけることができ、どうやったら手に入るのでしょうか。

 

軸があれば自信が湧いて幸せに生きられるのでしょうか。


さて余談ですがその付き合っていた彼女は他に男を作ってどこかへ消えてしまいました。
浮気して彼氏との縁を簡単に切ってしまう行為は信仰上問題ないのか、彼女の信じていた宗教は何を教え何を説いていたのか、彼女はそれで幸せになれたのか、自分には分かりません。