桃源郷

境界性パーソナリティ障害 愛着障害 うつ病 精神疾患と向き合うブログです。

過去を巡る 〜20代半ば①〜

就職して1年経った頃、Sさんと結婚することを決めました。
だらだらと遠距離恋愛を続けるよりも早く結婚して落ち着きたいという気持ちが強かったのを覚えています。
当時は(今もですが)ゲームやバイクが趣味で、それ以外に特にやりたいことやお金の使い道もありませんでしたし、他の女性と遊びたい欲も一切ありませんでした。
就職して安定した生活を送っていけそうなことを確認でき次第結婚しようと決めていましたし、自分の家庭を築くことが何よりの幸福であると信じていました。

 

ただ、結婚に向けて準備を進めている中で嫌な出来事がありました。
ひとつひとつの台詞は記憶が朧げですが、母に結婚の報告をした際に次のようなことを言われたのです。

 

母「結婚となると、一つだけSちゃんのことを確認させてほしい」
自分「うん。何?」
母「家系が部落じゃないだろうね?」
自分「え?部落?どういうこと?」
母「身分の低い人達のこと。歴史で学んだでしょ。」

 

つまり、母は身分の低い家柄との結婚は認められないということを言っていました。

 

親からこんなことを言われたなんて皆さんは信じられるでしょうか?
自分が歴史で学んだことは、そういった差別意識を持ってはいけないということでしたし、出身地や家柄で人を判断してはいけないということでした。

 

日本国憲法の中でも基本的人権は尊重されるべきであり、侵すことのできない永久の権利として謳われています。

江戸時代やそれ以前に階級制度があった時代においていくら身分が低かろうと、現代においては一切関係がなく、誰であっても分け隔てなく幸福に生きる権利があるということです。

 

母に対してはその場で強く反発しましたが、同時に涙が出るくらい悲しさが込み上げてきました。

 

差別がこの国でも起こり得るなんて。
自分の母がそんな人だったなんて。
ましてや息子の婚約者のことをそのような疑いの目で見ていたなんて。

 

過去にも幾度となく母に傷付けられてきました。
ただ、成人してからもこんな形で親への不信感が強まるとは思ってもみませんでした。

過去を巡る 〜20代前半〜

大学を卒業し社会人になってからは誰一人知り合いのいない静岡県に引っ越し、会社の寮で新生活を始めました。

 

学生の時はアルバイトとして、郵便配達・引っ越し・飲食店・ビラ配り・工場作業・試験監督・市場価格調査・レンタルビデオ屋など様々な種類の仕事を経験しましたが、残念ながら仕事に夢中になれることはなく、自分の新たな才能を発掘できるわけでもなく、はたまた運命的な出会いがあったわけでもなく、仕事というのはお金稼ぎ以外の何物にも化けませんでした。

 

それが就職ともなると週に5日、最低8時間の労働が40年続くわけで、ああ就職なんて人生の長いトンネルだなぁとか、そのトンネルを抜けると老人になって遊び回る気力や体力は残されていないなぁとか、そうすると就職した時点で人生は詰んでしまうのだなぁとかそんなことを考えていました。

 

実際働き出してみると予想していた以上に大きな壁が立っていました。
就職した会社は従業員数1万人超の東証一部上場企業であり、会社の仕組みや社会人としてのマナーや仕事の進め方、周りとの関係性構築、英語書類の読解など分からないことだらけで、その割に新入社員という肩書きだけで大きな期待の目で見られ、毎日不安と緊張とプレッシャーの連続でした。


仕事がなくてひたすら眠気に耐えて座っていただけの日もあれば、日付けが変わるほど忙しい日もあり、気持ちが落ち着くことはありませんでした。
朝起きれば今日も仕事かぁと気分が落ち込み、仕事が終われば明日も仕事かぁと憂いていました。

 

そんな自分にとっての救いは寮に帰ってのインターネットとゲームでした。休日はバイクや車に興じることもありました。

 

入社1年目こそ会社の同期と遊ぶことも多かったですが、次第に同期の誘いを断るようになり、最終的には自室に閉じこもってタバコを吸いながらゲームをする廃人と化していました。

パソコンのオンラインゲームにハマって少なく見積っても月に100時間は武器を背負って冒険に出かけていました。

 

こうして人との交流を避けるようになったのは先天的な性格なのかもしれませんが、これまでブログで綴ってきたような親の愛情不足に起因する他者への不信が原因ではないかとも考えてしまいます。


20代前半、こうしてすっかり人に心を開くことができない人間になってしまいました。

ブログ更新に関して

前回記事を書いてから3ヶ月も期間が空いてしまいました。

期間は空きましたがこのブログの存在を忘れていたわけではありません。

むしろ毎日のように思い出していました。

では何故更新しなかったかというと、疾患の症状が軽くなり、というかひょっとして完治したんじゃないか?と思うほど健康になったからです。

悩むことがなくなったので、自分と向き合い記録を残していく作業(つまりこのブログ)からも自然と遠ざかっていました。

 

しかしずっと悩んでいた疾患がこうも簡単に治るものなのか?治った気がしているだけかもしれない。躁鬱でいうところの躁のターンが来ているだけでは?と思うこともあります。

実際のところどうなのか、本当に健康になったのか、もう少し様子見をして確かめていきたいと思います。

また、もし治ったのであれば、何が治るきっかけになったのかについてもいずれ記事にしきたいです。

 

3ヶ月も空けておいてこんなこと言うことのも変ですが、実はこのブログを開設してから丸1年になろうとしています。

 

節目ということで、このブログの目的について振り返ると、

精神疾患との闘病記録を残し、同じ疾患を抱えている人に参考にしてもらう
②自分の半生を振り返り、自分を見つめ直し、自分を知る
③考えたこと・感じたことを綴り、本音を晒すことで自分が何者か、どう在りたいか、自分の幸せが何なのかを見つける

 

この3つです。

一番最初の記事に書きました。

 

この1年どうだったかというと、正直①に関しては全く自信がありません。というのもこのブログを読んだことのある人がいるかどうか不明だからです。

 

②③に関してはたとえ病気が完治したとしても必要な、今後の人生を歩む上で固めておきたい自分の基礎になる部分だと思っています。

そういう意味で書きたいと思ったことは最後まで記事として書ききりたいです。

過去を巡る 〜大学時代⑤〜

就職先が決まり社会人が目前に迫った頃、母にこのように言われました。


これから先はお中元とお歳暮ぐらいは送ってきなさいね、と。

 

「え?」
「だからお中元とお歳暮」
「それを誰に送るの?」
「うちに。当たり前でしょう」
「親に対してお中元とかお歳暮?」
「あんたね…こんなの社会人としての常識よ」
「そういうのはお世話になった人に自発的に贈るものであって、相手に対してねだるものじゃなくない?」

 

こう返すと母はとても不機嫌になりました。自分の意見が間違っているなんてこれっぽっちも思ってないのが母です。

 

母は今までことあるごとに「あなたは頑固だ」と非難してきましたが、自分の意見が通らないととたんに不機嫌になる母こそが家族で一番の頑固者だと思います。

 

また、お中元やお歳暮と同様に、母の日には何か物を贈ってきなさいとも言ってきます。

 

母は時折子供のことを子供として見ず、「自分を満足させるための道具」「世間体を守るための道具」として扱うことがあります。


高い教養を持つこと、優秀な学歴を残すこと、親をいたわること、親にプレゼントを贈ること。

母の求める子の理想像はこんな感じだと思います。

 

逆に自分の考える親のあるべき姿とは、どんなことがあっても子を見捨てず、子に無償の愛を注ぐ存在だと思います。
その親の姿を見て子は安心感を持って生きていき、やがて自立するのではないでしょうか。

 

 

過去を巡る 〜大学時代④〜

大学4年になると就職活動が本格化しました。


自分は地元福岡に戻って就職し、故郷で生きていくつもりでいました。

付き合っていた彼女がいること、小中高の思い出の地であること、親孝行しなければならないという思い、食事の美味しさ、方言を使って話すことができること、ソフトバンクホークスの存在など、とても魅力に溢れた土地です。

 

ただ、強い地元愛があったにも関わらず特に就きたい職業があったわけでも勤めたい会社があったわけではありませんでした。
正直、どんなところに就職しても60歳の定年を迎えるまでは延々と長い長いトンネルを走り続けるだけの人生になるであろうという予感がありました。将来に夢や希望はありませんでした。

 

そんな中、ある企業の会社説明会にとても惹かれました。
そこはバイクの開発・生産・販売をしている会社です。自分の趣味がバイクに乗ることだったため、何となく…の気持ちで訪れた説明会でした。
その説明会は一流ホテルの大広間で行われ、自社製品を並べて展示してあり、とりわけ一台で億を超える金額のMotoGPマシンを生で間近で見ることができたこと、煌びやかな雰囲気にも関わらずフランクな社員たち、学生一人一人にペットボトルを配るなど細かいところまで学生を歓迎する空気に溢れていました。

こんな会社で働けたら夢のようだな、とその時思いました。

 

そして4月早々の段階でこの会社から内定の連絡を受けることになります。


どの会社の説明を聞いてもピンとこなかった自分が初めて興味を持った会社から内定をもらえるなんて不思議な縁があるものだなと思います。

 

ただ問題なのはこの会社が地元福岡ではなく静岡県にあったことでした。

しかも支社や営業所もない会社なので、ここに就職するということは60歳まで地元に帰ることができないことを意味していました。

地元からは遠く、彼女とも遠く離れ、友人や仲間とも離れ、誰一人として知る人のいない静岡の地。
それでも自分はここで生きていくことを決めました。

 

ずっと親に敷いてもらったレールを走り続けて生きてきた自分が自立した瞬間かもしれません。

過去を巡る 〜大学時代③〜

自分が通っていた大学のキャンパスは埼玉県にあり、また本部キャンパスが東京都新宿区にあったため、埼玉で一人暮らしをしつつ週に2〜3回東京に通う生活をしていました。

 

一人暮らしというのは自由なもので、どんな自堕落な行動をしていても叱ってくれる人はおらず、自らを律して生活する必要があります。それができない人は驚くほど多くいて、身近にも大学に行くことを面倒くさがって留年してしまう友達がちらほらいました。

人間は思いの外意思が弱く、規律を守るモチベーションを保つことができない生き物なのだなぁとしみじみ感じました。

 

ちなみに大学4年生の時に父が単身赴任で東京都品川区に住み始めたので、これは親子関係を修復・再構築するチャンスかもしれないと思って父の家に転がり込んで二人暮らしを始めてみました。


しかし住み始めた途端に家庭内別居状態に陥ってしまい(1階がLDK、2階が2部屋という間取りだった関係もある)、父との会話はほぼありませんでしたし顔を合わせることも少なかったです。

 

このブログで見てきたように、小さい頃からずっと父のことは嫌いでしたし、父も自分にあまり興味がありませんでした。

二人で暮らしてみてもその気持ちは何ら変わることなく、親子関係は改善されないまま終わってしまいました。


あれから15年近く経ちますが、二人で住んでいたことを懐かしんで思い出話をするようなことは今までに一度もありません。きっとこれから先もないでしょう。

 

さてこうして埼玉や東京に住んでみて、大学を卒業したら地元福岡に戻って就職したいと強く思うようになりました。
東京に残って就職することも考えましたが、東京は言語(方言)や文化、慣習などの面でどこか違和感があったこともありますし、それからやはり心の奥底ではまだ親(主に母)に認められていないという思いがあったからだと考えています。

東京大学に入ることが出来なかったという負い目があり、どうにか別の形で親に認めてもらうため、無意識のうちに地元に帰る必要性を感じていたのかもしれません。

まだ自分は子供になれていないですし親に甘えることができていません。

 

また、もうひとつ大事なことですが、前回の記事
https://itsuki83.hatenablog.com/entry/2020/07/28/212031
で最後に触れたSさんの存在がありました。
Sさんは福岡の大学に通う学生であり、また自分が高校生の時に所属していた芸能事務所の後輩にあたる人で、雑誌やCMに出たりモデルとして活動していました。
自分が大学2年生の時にSNSがきっかけで仲良くなり、やがて付き合うことになるわけですが、Sさんは福岡市在住でしたので遠距離恋愛となっていました。

Sさんの存在が福岡に戻りたい大きな理由のひとつでした。

過去を巡る 〜大学時代②〜

前々回の記事

https://itsuki83.hatenablog.com/entry/2020/07/09/001306


でも書きましたが、大学生前半で自分は夢を諦めることになり、何者にもなれないことを実感しました。

 

それ以来、仕事で成功したいという思いや欲は一切なくなりました。

 

自分の幸せとは何か?を考えた時にどうしても”仕事”の二文字は場違いな感じは否めず、幸せに該当するとは思えませんでした。

 

幸せの形はきっと人それぞれあるのでしょうが、自分にとっての幸せとは誰かを愛し愛されることかなぁと思います。(現在進行形でそう思っています。)

 

このブログで幼少期から人生を振り返ってきたように、この半生の中ではなかなか満足に愛情を得られることができませんでした。苦しい思いをする場面が多くありました。

 

そんな背景もあり、自然と
”愛情の溢れる温かい家庭を作ること”
これが自分の夢となりました。

 

温かい家庭と言うと抽象的で情緒的な表現ですが、童話のマッチ売りの少女の中で出てくる描写がイメージに近いかもしれません。
以下はネットで拾ったマッチ売りの少女の一場面です。

 


「おお、寒い。」
「お母さん、僕、お腹すいたよ。」
「早く家に帰って、温かいスープを飲みましょうね。」
少女と同じくらいの年の男の子が、お母さんと話しながら、幸せそうに少女のそばを通り過ぎていきました。
家々の窓からは、暖かそうな灯りがもれています。

 


短い文章ですが男の子とお母さんの間には確かな愛情があるように感じられます。家の中は暖炉があり木がパチパチと音を立てオレンジ色の炎に包まれ燃えている情景が目に浮かびます。
少女の置かれている状況とはまるで対照的です。

 

もし愛情溢れる温かい家庭があれば少女は寒空の下でマッチを売ることもなく、凍死することもなく、幸せに生きていけたかもしれません。


家庭環境は全く別ですが、自分も温かい家庭の中で育てばもっと伸び伸びと幸せに生きてこられたかもしれない、なんて思います。

 

しかしいつまでも過去を嘆いていても仕方ありませんし事態が好転しないことも分かっています。

 

だから自分は将来愛する誰かと結婚し、夫婦で力を合わせて家庭を盛り上げ、子供を授かった際には積極的に育児に参加し、休みの日は家族みんなで遊ぶような、そんな家庭を作り上げたいと夢見るようになりました。

 

まだ年齢的には20歳くらいでしたが、当時から
誰かと付き合う=結婚する
という意識でいましたし、恋愛は決して遊びではなく本気で取り組む覚悟がありました。

 

そこで出会ったのがSさんでした。